NHK大河ドラマ「いだてん」でダブル主演のもう1人の偉人は、田畑政治(たばたまさじ)という人物です。阿部サダヲさんが演じることで話題となっています。
田畑政治は、「偉大なガキ大将」「日本水泳の父」「オリンピックレガシー」と数々の異名を持つとても面白い人なのです。多くの別名は、それだけ生涯で色んなことを成し遂げたということを意味します。1964年の日本初のオリンピック、東京五輪を招致した田畑政治。日本人として知っておくべき、大河ドラマの主役に相応しい経歴の持ち主です。
田畑政治、どんな人物か気になってきたのではないでしょうか。それでは、田畑政治について紹介していきます。
目次
田畑政治の経歴、生まれた街は静岡県浜松市!
大河ドラマ #いだてん の後半の主人公の #田畑政治 殿は #浜松 出身なのを知っておったかの?#水泳日本の父 である田畑殿ゆかりの地として、ツイッターを始めたのじゃ!
ぜひご覧くだされ~@tabatamasaji
フォローもしてくれるとうれしいのじゃ(こそっ) pic.twitter.com/9nLMeaJ6Fh— 出世大名家康くん【公式】 (@ieyasukun100) 2019年5月15日
田畑政治が生まれたのは…海に山、川に湖…豊富な自然に囲まれた浜松市。浜松といえば、浜松餃子に浜名湖うなぎ。美味しいものがたくさん…あげているとキリがなくお腹すいてきます。魅力的な街ですよね。出世大名家康くんもつぶやいちゃうほど浜松では大切にされている田畑政治さん。どんな人物か気になってきませんか。後に偉業を成し遂げる田畑政治は、浜松の地でどんな日々を過ごしたのでしょう。素敵な街で育った田畑政治の生い立ちに追っていきましょう。
田畑政治、浜松一中(現在の浜松北高校)でエース級スイマーに!しかし、若くして夢破れる…
#田畑政治 さんの生家跡、造り酒屋「八百庄」。現在の成子町セブンイレブンのところ。 pic.twitter.com/Pwxe1Ml15P
— きすけ🐣 (@kisukepiyopc) 2019年4月21日
1898年(明治31年)12月1日、浜松町成子(現在の静岡県浜松市中区成子)にて田畑政治は田畑家の次男として誕生します。田畑政治の生まれた家は、浜松市中区の造り酒屋「八百庄商店」という、かなりの資産家。父の田畑庄吉は議員も務めていた高額納税者でした。大富豪の息子、生粋のお坊ちゃまとして幼い時を過ごします。
田畑政治の生家跡は、とても広く、現在はコンビニになっているそうです。
浜松一のお金持ち・地元の名士の家系に産まれ何不自由ない恵まれた生活…しかし、政治は幼いときから体が弱く、30歳まで生きられないと言われていました。母・うらは、そんな政治を心配し環境のいい舞阪町弁天橋あたりの別荘で夏休みや冬休みは過ごすようになりました。母心感じます…政治が大切に育てられてきたというのがエピソードからも伝わってきますよね。
#まーちゃん こと #田畑政治 の母 #うら 役の #根岸季衣 さん登場📢
「方言指導の先生から浜松ことばをおほめいただき、ホッとしていたら『その場で直しても出来る』と思われたらしく、次のシーンからどんどんアドリブが足されて冷や汗ものでした(冷や汗、映っていませんように)」#いだてん pic.twitter.com/J3H7ZKtfA8— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年4月28日
舞阪町の別荘の近くに広がる浜名湾。彼は、その浜名湾でよく泳いでいたそうです。政治にとって「泳ぐこと」は、体を鍛えるためでもあったかもしれません。幼いころからの水泳経験がみごとに開花します。浜松一中(現在の静岡県立浜松北高等学校)の「遠州学友会水泳部」では、政治は1、2を争うエース級のスイマーだったそうです。
しかし、田畑政治は浜松中学校(現在の浜松北高校)4年生のときに、慢性盲腸炎と大腸カタルを併発。医師から「泳いだら死ぬ」とまで言われるほど重篤な病状に陥ってしまいます。水泳選手としてこれからだった政治青年は、泳ぐことを諦めなくてはならなくなりました。泳ぐことが生きがいだった様な青年は、一瞬にして選手として水泳できなくなってしまいました。彼は辛かったにちがいありません。
ところが、この田畑政治という人は「ここから」がスゴイのです。学ぶべき、マインド切り替えの「切り替えスイッチ」、彼には生きる強さがありました。
水泳指導者として生きることを決めた田畑政治。浜名湾から世界に通用する選手を!
競技者としての道が断たれた田畑政治でしたが「それならば指導者としてNo.1を目指そう」と後進の指導に力を入れていきます。境遇に負けず精力的に活動していきます。そして着実に結果を出していくんです。ひとを導く…田畑政治の「偉大なガキ大将」という異名はここから生まれたのではないでしょうか。
田畑政治は、天性のポジティブシンキングの持ち主なんです。これから起こる困難にも、彼の前向きな思想が活きてきます。もしかしたら、歴代大河ドラマで一番前向きなキャラクターかもしれません。
・地元の浜松中学校の後輩を育成、その後輩たちが地元の水泳大会で優勝
・周辺の水泳部の活動を盛り上げるため1916年(大正5年)8月、「浜名湾遊泳協会」を組織。
・1921年(大正10年)水泳全国大会の開催を企画、実現。浜名湾北弁天島に会場となる幅30m、長さ100mの海水プールを設置。
田畑は東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。しかし、「水泳で浜名湾を一番に…」という志を忘れず、休みには地元・浜名湾に戻り、後輩の指導と水泳の普及に務めていきます。大阪の強豪校がいち早く取り入れていたクロール泳法を、「浜名湾遊泳協会」にも導入。2年後の1923年(大正12年)「浜名湾遊泳協会」が悲願の日本一となります。日本No.1の浜名湾のチームを育てあげます。
政治の野望は、日本No.1にしただけにはとどまりませんでした…次は世界、世界のNo.1にという新たな目標を目指します。
若くして、組織をまとめ上げ運営するという才能を発揮。すごいですよね。学生をしながら休日に後輩の指導も行うなんて、強い意志がなくては成し遂げられません。強豪校から学んで指導法を取り入れる柔軟さ、海水プールまで作ってしまうバイタリティー、大正のアツい男・田畑政治なくしては、日本水泳の未来はありませんでした。
「日本水泳の父」田畑政治とオリンピック
#いだてん 第2部・ #田畑政治 篇を彩る新たな出演者、日本水泳チームを演じる皆さんのコメントを動画でお届け✨
田畑とともに世界に挑む「#まーちゃん軍団」🏊🏻♂️ 意気込みもバッチリです💪🏼https://t.co/GeZGnUPLKO— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年5月8日
1924年(大正13年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業、田畑政治は朝日新聞社に入社しました。田畑は、朝日新聞社政治部に配属され政友会担当となり、有力政治家に顔を知られるようになります。戦後に首相となる鳩山一郎にも目をかけられ懇意にしていました。
田畑政治の行動はすべて「日本の水泳を世界レベルに!」という目標へと突き進みます。名だたる政治家たちとのパイプを作りながらも、休日は後進育成のために浜名湾へ…彼は、すべての行動に微塵もブレが無いんですよね。世界との戦いを考えると、おのずとオリンピックが視野に入ります。田畑政治はいよいよ「五輪」へと焦点を合わせていきます。
田畑政治、世界へ。「オリンピック第一主義」を掲げ、アムステルダムオリンピックとロスオリンピックへ!
『いだてん』第2部の新キャスト7人発表 斎藤工、林遣都、トータス松本らが出演 | ORICON NEWS https://t.co/ur7gnkjgVU
大東駿介は、1928年アムステルダムオリンピックの200メートル平泳ぎで、日本水泳界初の金メダルを獲得した鶴田義行を演じる。 pic.twitter.com/kYsGjoSJ8h— かよりん (@kayorinrin) 2019年4月24日
日本も1912年(明治45年)に金栗四三や三島弥彦が初参加したストックホルムオリンピック以降、近代オリンピックに注力するようになりました。それは、田畑政治の描いていた志に合致していきます。田畑政治は明確に目標を定めて「オリンピック第一主義」を掲げ、1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピック(オランダ)を目指します。
アムステルダム五輪では、男子200m平泳ぎ・鶴田義行が金メダルを獲得するなど、水泳日本が世界に通用することが証明されます。その後の政治の快進撃は目を見張るものがありました。まさに田畑政治は指導者として教え子たちを次々と世界進出させていきます!
1929年(昭和4年)「大日本水上競技連盟(現在の日本水泳連盟)」の事務理事に就任。
1930年(昭和5年)「大日本体育協会(現日本スポーツ協会)」の専務理事にも就任。
とうとう田畑政治は水泳指導者としての功績が認められ、日本水泳の指導のトップに立つのです。
1932年(昭和7年)ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)で選手団団長に。水泳日本代表総監督も兼務、世界の舞台へ日本競泳選手団を送り込みます。
ロス五輪での【日本全体のメダル数】は、金:7メダル、銀:7メダル、銅:4メダル。その中での【水泳の獲得メダル数】は、金:5メダル、銀:5メダル、銅:2メダルなんです。ロサンゼルスオリンピック日本競泳選手は好成績でした。アメリカへ渡った日系人達は、田畑率いる日本チームのこの結果に勇気づけられたのではないでしょうか。スポーツの感動は、人にパワー与えてくれますよね。
「いだてん」で、キリッとした面持ちの大東駿介さんが、水泳界のスターである、アムステルダム五輪の男子200m平泳ぎ金メダルリスト・鶴田義行さんを演じます。
激動の時代、田畑政治と幻の東京オリンピック。
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1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック(ドイツ)で水泳日本代表監督を務める。
・競泳日本代表獲得メダル数…金メダル4、銀メダル2、銅メダル。
1937年(昭和12年)日中戦争(1937年7月7日の盧溝橋事件が端となった)、国際的に非難を受けた日本は孤立状態に陥る。
1940年(昭和15年)東京で開催予定だった東京オリンピックが中止にオリンピック開催権返上…東京五輪の代替え開催予定だったヘルシンキ五輪も第二次世界大戦により中止。
1944年(昭和19年)ロンドン開催予定だった五輪も戦争により中止。
1948年(昭和23年)
・日本水泳連盟の会長に就任。
・ロンドンオリンピック参加を断られる。ロンドン五輪と同日に水泳の日本選手権決勝を行う(日本水泳のレベルを世界へ知らしめるため)。
1949年(昭和24年)日本の国際水泳連盟(FINA)への復帰に尽力。
ベルリンオリンピックの頃から、世界の状況は厳しいものになっていました。もちろんスポーツも例外ではなく、直接的にオリンピックも戦争の煽りを受けていきます。特に1940年(昭和15年)に開催予定だった「東京オリンピックの中止」は、開催に向けて前進全霊を尽くしていた田畑政治にとって、辛かったことでしょう。
このショッキングな出来事は、「幻の東京オリンピック」といわれ今でも語り継がれています。戦時下の日本ではスポーツは統制に害を及ぼすとして禁止され、各種統括団体は解散させられます。しかし、田畑政治は日本水上陸上競技連盟を解散せずに温存します。
戦後も、田畑はGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに働きかけ、ロサンゼルスでの水泳大会に遠征する許可を得るなど、精力的に活動していきます。このことがきっかけで日本は再び国際舞台で活躍できるようになりました。
苦難は続きます。敗戦国である日本は、ロンドン五輪の参加が認められませんでした…めげない田畑は、ロンドン五輪の競泳と同日程で日本選手権を開催。なんと、古橋廣之進・橋爪志郎がロンドン五輪金メダリストの記録を上回るタイムをたたき出します。水泳日本の実力を世界に知らしめるための策でした。不屈の精神で、前向きなアクションを起こし続ける田畑政治の凄さがわかるエピソードですよね。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックは、この幻のオリンピックとロンドン五輪の不参加の雪辱がなければ開催されることはなかったかもしれません。「いだてん」でこのできごとが、どの様に描かれるのか興味が湧きますよね。
オリンピックレガシー田畑政治と戦後のオリンピック。再び東京オリンピック招致へ!
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1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック(フィンランド)の日本選手団団長を務める。
1956年(昭和31年)メルボルンオリンピック(オーストラリア)の日本選手団団長を務める。
「東京でオリンピックを!」という田畑の想いは強いものになっていきます。初志貫徹の男・田畑政治は悲願の東京オリンピック招致に奮闘!
デトロイト、ウィーン、ブリュッセルという他の有力候補もいましたが…1964年(昭和39年)東京オリンピック開催が決定します!ついに日本にオリンピックがやってくることになりました。このすばらしいニュースに日本中が歓喜、日本人に活きる活力を与えます。
田畑政治はオリンピック組織委員会の事務総長に就任。そして、柔道とバレーボールをオリンピック正式種目にします。東京オリンピックで大活躍した日本女子バレー代表「東洋の魔女」の金メダル獲得は有名ですよね。輝かしいその背景には、「オリンピックレガシー」と呼ばれる田畑政治という1人のアツい男の姿があったということを忘れないでいたいです。
晩年の田畑政治、田畑政治の子孫は?
ロサンゼルスオリンピックの翌年の1933年(昭和8年)に、田畑政治は35歳のとき菊枝と結婚します。彼には、娘さん2人と息子さんが1人、一男二女に恵まれたそうです。長女・治子さん、次女・醇子さん、長男は和宏さん。特に長男の田畑和宏さんは、NHKに勤務され、NHK理事を退任後は、関連企業に務められたそうです。NHK交響楽団のピンチ打開をはかるなど、父譲りの逆境に負けない精神で、楽団を支えたといいます。父の背中をずっと見てきたからなのでしょうか、どことなく和宏さんに田畑政治イズムを感じますよね。
東京オリンピック後、田畑政治は1973年(昭和48年)日本オリンピック委員会(IOC)の会長に就任しています。田畑政治は、1980年代よりパーキンソン病を患い、車椅子生活を送るようになります。1984年(昭和59年)のロサンゼルス五輪直前には一時危篤状態に陥りましたが奇跡的に回復。テレビでロサンゼルス五輪を観戦し、涙を浮かべたといいます。そして、五輪閉会から2週間後、87歳の田畑政治は病院にて息を引き取りました。
オリンピックレガシ―田畑政治に、オリンピックの神様は最後観戦するという素晴らしい奇跡を起こしてくれました。このエピソードは、胸にグッとくるものがありますよね。オリンピックと共に生きた男は、最期に観た五輪に何を感じたのでしょうか。
「いだてん」で田畑政治を演じる俳優は?
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もちろん「いだてん」の田畑政治役は阿部サダヲさんなのですが…もう2人、話題となっている田畑政治役の俳優さんがいることをご存知でしょうか。
田畑政治さんの幼少期と青年期を演じる俳優さんがいま話題となっているんです。阿部サダヲさん同様、ユニークなキャスティングなんですよ。幼少期と青年期を演じる俳優さんを紹介します。
田畑政治の幼い頃を演じる子役は、丸メガネが可愛い!
「そうです、この田畑の #まーちゃん こそ、のちの1964年東京オリンピック招致の立て役者、#田畑政治 なんですが…まあ、この話はまだまだ先でございやす」#いだてん #阿部サダヲ #山時聡真 pic.twitter.com/2XPR9Vxu1V
— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年4月28日
「いだてん」で政治の幼き時代「まーちゃん」を演じているのは、山時聡真くんという子役さんです。丸メガネで利発な感じが母性をくすぐるようで、世の奥様たちがこぞって「可愛い」と話題にしているんですよ。
実はもう1人、田畑政治を演じる俳優さんが…青年期担当の俳優さんも世間をざわつかせています。
「いだてん」で田畑政治の青年期を演じる俳優が、阿部サダヲに激似!?
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新聞記事にも大きく取り上げていただきまして感謝です‼️
皆さま是非とも出演情報拡散していただけると幸いです。
よろしくお願い致します🙇♂️#いだてん #田畑政治 #原勇弥 pic.twitter.com/9h1TrjAyHI— 原勇弥 (@HARA_BOY) 2019年5月16日
ビジュアルで世間を魅了している話題の人…「いだてん」で田畑政治の青年時代を演じているのは原勇弥さんです!
どうです?阿部サダヲさんにソックリだと思いませんか。「似すぎ~!」と巷がざわついています。偉大な人物・田畑政治を演じる俳優さんも注目度高い3人でしたね!それにしても原さん、笑っちゃうほど阿部サダヲさんに似てますね~どんな演技をされるのか、期待値高まります。いまから本当に楽しみですね。
【まとめ】田畑政治の経歴や子孫は?浜松一中や浜松北高とオリンピック招致について調査!
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田畑政治さんの経歴を紹介してきました。経歴を調査してみて分かったことは、数々の異名以上に日本スポーツに与えた功績が大きい偉大な人物であるということです。戦争を経てもなお、スポーツの息吹を絶やさなかった…田畑政治さんの心意気は半端じゃないです。人生において「志」を持って生きるということや、目標を実現までつなげるまで諦めない心は、田畑政治さんに学ぶべき部分です。彼が成し遂げたのは誰しもができるわけではない偉業でした。
知れば知るほど「いだてん」でどのように描かれて行くのかが楽しみで仕方ありません。知っておくべき田畑政治という日本の五輪史、楽しんでみたいですね。
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