NHK大河ドラマ「いだてん」、主人公のみならず、脇を固める人物たちも魅力的なことが話題となっています。

アツき男たちの中でひと際異彩を放つ、目を引く人物・押川春浪を知っていますか?「いだてん」の中では、いつまでも若々しい素敵男性・武井壮さんが演じているんですよ。

近代スポーツの振興に貢献、おまけに人気小説家というオモシロイ経歴の持ち主・押川春浪…気になりませんか?

それでは、押川春浪について紹介していきます。

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押川春浪は「ベストセラーを書いた小説家」

1876年(明治9年)3月21日、愛媛県温泉郡松山小唐人町(松山市)で誕生

父・押川方義は日本キリスト教会の元老、母は押川常子。

生後8カ月で愛媛県松山市から新潟県へ旅をした赤ちゃん(押川春浪)は、後に「冒険小説作家」となります。生まれてまもなく長い道のりを「冒険」したなんて当時じゃ珍しかったはずですよね。そのときから、彼の運命は決まっていたのかもしれません。

押川春浪はペンネーム。本名ではなかった!?複数の学校を転々とする異端児!

押川春浪は、ペンネームです。押川家の長男として生まれた彼の本名は、押川方在(おしかわまさあり)と言います。ペンネームも本名も、どちらも遜色ないカッコよさですよね。

名前がカッコイイ人というのは結構自由人が多い気がしませんか?

この押川少年もその一人…当時で言う「バンカラ」な行動をとった人物でした。超優秀、なれど型破りで破天荒。頭がよく賢いだけに周囲も手を焼いたそうです。

実に4つの学校を転々としました。明治学院、東北学院、札幌農学校、水産講習所の4校。

・単身上京して入学した明治学院では「野球に熱中しすぎて2年連続落第」

・父押川方義の設立した東北学院に編入するも「乱暴を働き放校処分」

・札幌農学校でも「騒ぎを起こす」

・芝にある水産講習所(現在の東京海洋大学)に入学するも「続かず退学」

最後の砦となったのが、父・方義が親しかった大隈重信の創立した東京専門学校専修英語科(現在の早稲田大学)へ。英語科を卒業します。そして政治科へ進みました。

父親の設立した学校においても乱暴を働いてしまうという自由さ。4校を転々としてもめげない心。青年時代に十分「冒険」して培った「想像力」を活かして押川青年は、やがて青少年を釘づけにする冒険小説を書きあげます!

押川春浪だけでも大河ドラマが作れそうな感じですよね。彼にだんだん興味が湧いてきませんか?

冒険小説執筆、押川春浪がついに小説家に!

『水滸伝』や『三国志』を愛読。方在青年は自ら『少年文庫』にも投稿していた文学青年でした。

ヴィクトル・ユーゴ―やアレクサンドル・デュマ・ペールなどのフランス作家に刺激を受け、小説家を志します。そして、東京専門学校在学中にSF小説『海底軍艦』を執筆!この作品は「日本のSFの草分け」と呼ばれているんですよ。1900年(明治33年)『海島冒険奇譚 海底軍艦』を文武社より出版。この作品が人気となります。

児童文学の大家・巌谷小波に認められ、後に「春波」の号を与えられますが、「春浪」に改めました。

ついにSF・冒険小説作家・押川春浪が誕生しましたね!海底軍艦シリーズ6冊、世界怪奇譚 シリーズ6冊など…多くの青少年を夢中にさせる小説を数々生みだす彼は、多くのこどもに夢を与えました。優等生ではなく、色んな場所を転々とした「青春時代」を送った押川だからこそ書けた小説なのかもしれません。

本人が求めていた世界が彼の小説の中にあり、子どもたちはその世界で心躍らせて想像力を膨らませていったのだと思います。日本の冒険小説の先駆者、カッコイイですよね。

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「天狗倶楽部」創設、無類のスポーツ好きだった…押川春浪と野球

作家としての傍ら、学生時代から無類のスポーツ好きの押川春浪。中でも野球が大好きでした!兄弟揃って野球好きだったようで…弟の押川清は早稲田大学野球部キャプテン、後にプロ野球創設に貢献したという凄い人物なのです。

押川家、兄弟そろって凄いですよね。なんと押川春浪も、日本のスポーツ界に多大なる貢献を果たす「天狗倶楽部」の創設者なのです!押川春浪と天狗倶楽部と野球、詳しく深堀りしていきましょう。

押川春浪兄弟と野球、武井兄弟と野球…共通する「野球」の育んだ家族の縁。

元来の野球好きであること…そして弟が早稲田大野球部主将という縁もあり、押川春浪は野球界の人脈をどんどん広げていきます。1908年(明治41年)に刊行された『冒険世界』という…押川春浪が主筆し、春浪作品をはじめとした数々の冒険小説が掲載された雑誌がありました。その誌上に「スポーツ振興」についても彼は大きく取り上げました。

そして『運動世界』などのスポーツ誌にも寄稿。まだまだ理解されず、スポーツには害があるとされていた時代に、押川春浪はスポーツを世に広める礎を築いたのです。

実は武井壮さん、俳優だったお兄さんがいたそうです。お兄さんは、坂上忍さんの付き人でプライベートでも親交の深かったといいます。CMやテレビドラマ、舞台などで活躍された武井情さんという人物です。23歳で末期癌と診断され、24歳で亡くなったお兄さん。葬儀では坂上忍さんが弔辞を読まれたそうです。

兄が亡くなってから、兄弟を結びつけたのが「野球」でした。武井壮さんは、極楽とんぼの山本さんの野球チーム「神様」に所属します。ほぼ毎晩可愛がってもらい、ご飯を食べさせてもらったりしていると山本さんが「お前兄弟とかいんのか?」と聞かれ、「いたんですけど死んじゃいました」と武井壮が答えると。

「名前なんて言うんだ?(山本)」

「武井情っていいます(武井壮)」

「えっ!武井情って野球やってなかった?俳優とかやってなかった?(山本)」

実は10年前、山本と兄・武井情は、同じ野球チームに入っていました。唯一山本より年下の情を、可愛がってくれていたそうなんです!!「野球」によって繋がれた兄弟の絆、凄い話ですよね!この野球にゆかりの深い押川春浪という役が、武井壮さんにオファーがきたのを運命だと思うのは私だけでしょうか。

押川兄弟と武井兄弟、男の兄弟っていいな~と、スポーツで繋がっている家族の強さを感じます。「野球」って凄いスポーツなのかもしれませんね。

押川春浪と「天狗倶楽部」、東京朝日新聞の野球バッシング

押川春浪は、東京運動記者倶楽部に加入。そして、吉岡信敬、橋戸信、飛田穂州らとスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を結成します。学生を中心のメンバーで、野球、相撲、テニスなどを楽しみます。天狗倶楽部でも一番好んで行われたのは野球だったそうですよ。

1910年(明治43年)、東京朝日新聞が「野球害毒論」なるアンチ記事を掲載。それを皮切りに、多方面から「野球バッシング」がはじまります。なんでも先駆的なモノを受け入れるまでには日本人は時間がかかるのかもしれませんね。さて、黙っていなかったのは大のつく野球好きの押川春浪!押川を中心とした「天狗倶楽部」が反論

読売新聞紙上で反論を掲載したり、スポーツ誌『月刊ベースボール』を等の雑誌にも反論記事を載せます。アンチ記事の数倍にわたる文字数だったそうですよ。また、押川たちは演説会まで開いたとか…さすがの野球愛ですよね!

このバッシング騒動の反論記事のことで、博文館上層部と対立。最終的には『冒険世界』を辞任、退社することになってしまいます。

『冒険世界』を離れることは、押川春浪にとってどんなにか辛いできごとだったでしょう。でも、野球のことになっちゃあ黙っていられないという押川春浪らしいエピソードだなって思います…無骨でまっしぐら、明治の「少年の心をもった大人」って感じがします。

押川春浪早すぎる死…死因と子孫は?

時代は大正へと改元していきます。文明開化の明治時代から、大正という新しい元号へ…

押川春浪も博文館退社を経て、新しい道を歩もうとしていました。しかし、彼の人生はもう長くはありませんでした…押川春浪、明治を全速力で駆け抜けた男の最期を紹介します。

大正時代の押川春浪、亡くなるまで…死因は脳膜炎、若くして亡くなり子孫はなかった

1912年(大正元年)1月、押川春浪主筆で興文社から『武侠世界』を発刊。彼の小説や評論、スポーツの記事、政治論、偉人の伝記まで。内容の幅と密度の濃い雑誌、大変好評で売れに売れました!

しかし、一高(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部や薬学部の前進となった学校)学長の新渡戸稲造との野球害悪論論争で大きな避難を浴びてしまいます。いまでいう炎上ですね…最後には謝罪記事を読売新聞に掲載する事態まで発展しました。

押川春浪は1913年(大正2年)頃になると、飲酒による体調悪化で執筆もしばしば中断するようになります…1914年(大正3年)4月~6月、小笠原父島に転地療養します。11月16日、脳膜炎により田端の自宅で死去、38歳でした。墓所は雑司ヶ谷霊園だそうです。

押川春浪は、野球論争による失意で飲酒にはしってしまったといわれています。自ら命を縮めてしまう彼ですが、今では日本のプロ野球は世界に通用する選手を数多く輩出していますよね。野球がポピュラーとなった現在を押川春浪が見ていたら、きっと大はしゃぎすることでしょう。最後まで自分の意志を貫いた男の生き様は、知らずとも今も多くの野球人の熱い心に刻まれているような気がします。

1914年(大正3年)11月23日には神田青年館で「春浪追悼演説会」が開かれました。

彼の生き方は少々強引でも人々に愛されていたということが時を超えて伝わってきます。若くして亡くなったため子孫はいませんでしたが、弟の押川清はなんと「プロ野球創始者」です!彼の意志は、家族にしっかりとバトンが渡されていました。

【まとめ】押川春浪の子孫や死因と天狗倶楽部との関係は?朝日新聞と野球でもめたって本当?

 

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いかがでしたか。日本の快男児、押川春浪の生涯をたどってきました。勇ましいスポーツ新時代を切り開いた凄い人生でした。スケールの大きさに、冒険小説を地で行っている歩みに感動させられました。

いつの時代もバンカラとよばれるようなこういうバイタリティに溢れる人が、道を作ってくれているんですよね。並大抵のことではないのが理解できます。

野球を観るたびにすこし押川春浪に感謝しつつ、楽しもうと思います!

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