NHK大河ドラマ「いだてん」、日本マラソンの父ともいわれる金栗四三の生涯を、ユーモアたっぷりに描いています。五輪に真正面から向き合い、一生をかけて「走る」ことにまい進した男のカッコイイ足跡に多くの感動し、熊本の生誕の地は連日、人が絶えないそうですよ。

「走る」ために大切なのは、心と呼吸…そして足!金栗四三は、過酷なマラソンを走りぬく足のためのシューズの開発に力を注ぎました。初めてのオリンピックで四三が履いたのは「足袋」でした。四三の足を支えた足袋を作ったのが黒坂辛作という人物です。

今回は、オリンピックの影の功労者・黒坂辛作の生涯や、播磨屋の足袋、そしてシューズ開発について調べたことを紹介していきます。

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日本の五輪史だけでなく世界の五輪史に残る、偉大な足袋職人・黒坂辛作の生涯とは

1981年(明治14年)生まれ兵庫県出身、黒坂辛作は21歳の時に東京に上京してきます。辛作の生涯は、東京に出たことで大きく変わります

黒坂辛作、金栗四三との運命の出会い

 

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1903年(明治36年)文京区大塚にある東京師範学校の裏手に「播磨屋 足袋店」を構え、足袋職人・黒坂辛作がスタートします。東京師範学校(後の筑波大学)からは、近いこともあり足袋の注文を受けていたそうです。

辛作が30歳のとき、運命の出会いが訪れます!金栗四三が、五輪選手を選考する羽田の予選会に黒坂辛作の足袋を履いて出場するのです。播磨屋の足袋は、折り返しの時点でボロボロ…四三は結局素足でゴールしました。走り切った足はケガをし歩けなくなるほどだったといいます。

結果をふまえて、金栗は黒坂辛作のもとへマラソンにも耐えられる新たな足袋の製作を依頼しにいきます。足裏を酷使するマラソンに適するように底を三重に重ねて丈夫にし、足袋職人・黒坂辛作の渾身の足袋が出来上がります。それは「マラソン足袋」と呼ばれています。

世界に羽ばたいた播磨屋の足袋…金栗足袋

 

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金栗四三が出場した初めてのオリンピックの結果は、熱射病による途中棄権でした。五輪で海外選手のシューズをたくさん見た四三は刺激を受けます。ストックホルムから日本に帰国した四三は、さらなる進化を求めてマラソン足袋の改良を辛作に打診します。ここから、黒坂と金栗ふたりのシューズ開発がはじまります。

試行錯誤し、足袋型から現在の靴に近い型に変更。足底も耐久性に優れたゴムを使用し滑らないよう溝を付けるなどしてよりシューズとしての完成度を高めていきました。1919年(大正8年)、完成したシューズは播磨屋で「金栗足袋」として販売、瞬く間に売れ大人気ベストセラー商品に!1938年(昭和13年)ごろまで、学校で使用される定番足袋となりました。

そして、もっと凄いのは…この播磨屋で作られた足袋を履いて走った選手が2人、オリンピック優勝を果たすのです!!1936年(昭和11年)ベルリンオリンピックの孫基禎選手、1951年(昭和26年)ボストンオリンピックの田中茂樹選手の2人。下町の播磨屋の技術が日本を超え世界に認められ、羽ばたいたのです!

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息子に受け継ぎ躍進するハリマヤ…「カナグリ・シューズ」を発売!これが、日本初のマラソンシューズ!

 

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世界の舞台で見事に花開いた播磨屋の技術、職人・黒坂辛作の生涯は金栗四三と出会ったことで一変。下町から世界へ…リアル「下町ロケット」のような出来事が起きましたね。

黒坂辛作には二男二女の子供がいたようです。播磨屋は辛作の息子へ、そして孫へと代々続いていきます。では、その後の「播磨屋」の行く末を紹介していきましょう。

播磨屋からハリマヤ運動用品へ、足袋からシューズへ!

金栗足袋の大ヒットや五輪の功績もあり、1943年(昭和23年)「ハリマヤ運動用品」として事業拡大していきます!金栗足袋を基にした靴づくりを、父・辛作に変わり息子・與田勝蔵が社長となり、職人精神を引き継ぐことになりました。父から受け継いだ勝蔵は、金栗四三と一緒に未だ日本にない靴を世に送り出します。

※黒坂辛作の妻の実家・與田家に後継ぎがいないため、長男・勝蔵は戸籍上、與田家の養子に。そのため、與田姓を名乗っています。

「走る」ということに特化した靴の研究をして、金栗足袋の進化系・つま先が2つに割れ、甲部分を紐で結ぶ「カナグリ・シューズ」を開発し、発売。ここに、日本初の国産ランニングシューズが誕生しました!

2人が出会って30年…このころ黒坂辛作73歳、金栗四三62歳。まさに生涯をかけた2人の努力の結晶がここに完成。黒坂辛作にとっては親子2代に渡る息子との合作でもあります!

ハリマヤのカナグリシューズは世界の舞台で偉業を成し遂げます。1953年ボストンマラソンで、金栗四三の門下生・山田敬蔵選手がこのシューズを履いて2時間18分51秒の世界記録を樹立!

品質の高さは折り紙つき…職人の気概を忘れないハリマヤは、人間の足の形や動きを研究して製品に活かし、シューズの機能性を追求し続けました。国内シューズメーカーの先駆けとしてハリマヤは地位を確立します。

最先端をひた走った親子2代、息子から孫へ…ハリマヤのその後。

新戦力の台頭に苦しんだハリマヤ運動用品

ハリマヤ運動用品の繁栄に陰りが見え始めたのは1960年代以降でした…

1960年(昭和35年)、足にマメのできないのが売りの「マジックランナー」という空前のブームを起こした商品を販売したオニツカタイガー(現在のアシックス)が国内で急成長してきました。加えて、ミズノも巨大な資本を基にシェアを拡大してきました。

1968年(昭和43年)、君原健二選手がオニツカタイガーの「マジックランナー」を履いて、メキシコオリンピックで銀メダルに輝きます。そして、マラソン足袋時代は終わりを告げます。

ハリマヤの倒産

マラソン足袋のフィーバーが去ろうとも、ハリマヤには伝説の男・金栗四三と開発したシューズによって国内で一定の売上を確保していました。体育館シューズとして老舗の誇りを守っていたのです。

このころになると、黒坂辛作の息子・與田勝蔵から孫の誠一に経営が引き継がれていました。そして1991年(平成3年)、バブル期の多角経営により、バブル崩壊の煽りを受け、黒坂辛作から息子へ孫へと継がれたハリマヤは、88年目にして事業停止することになってしまいました。

【まとめ】黒坂辛作の生涯とは?播磨屋の足袋やシューズ開発と息子について調査!

日本が誇る職人・黒坂辛作、いかがでしたか。

1人の男・金栗四三との出会いで劇的に変化する人生…黒坂辛作だけでも十分ドラマになりそうな生涯でしたね。息子の代まで繋がれた金栗四三との深い縁に感動しました。彼の生涯から「人との出会い」の大切さを教えてもらったような気がします。

そして黒坂辛作からは、日本の職人の持つ「職人魂」の気概も伝わってきます。その気質こそ、日本が世界に誇る宝物ですよね。

これからの「いだてん」で、黒坂辛作がどのように描かれていくか楽しみです!

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