NHK大河ドラマ「いだてん」で永山絢斗さんが演じる野口源三郎という人物を知っていますか。
金栗四三の仲間であり、金栗と一緒に「箱根駅伝創設」という偉業を成し遂げた人なんですよ。箱根駅伝といえば、日本のお正月の風物詩、これを観なくては1年がはじまらない…欠かせない大切な日本のイベントですよね。そして、数々の偉大な五輪マラソンランナーの登竜門的な大会でもあります。箱根駅伝の考案者がどんな人か気になってきませんか。
日本のマラソンの歴史に野口源三郎あり!今回は、競技者・指導者・教育者…すべてにおいて超一流のスペシャリストであった野口源三郎について紹介していきます!
野口源三郎、埼玉県深谷市とのつながり
1957年(昭和32年)、野口源三郎の寄付金を基に「埼玉県体育賞」が設けられるほど、埼玉県の偉人です。生まれた場所や、生い立ち、野口源三郎について紹介していきますね。
野口源三郎は埼玉県深谷市出身、深谷のスター!
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野口源三郎を語る上で大切な場所は出身地、埼玉県深谷市です。後の日本スポーツ界の礎を築く、野口源三郎の基礎を育んだ土地。深谷市が生んだ二大スター、ゆるキャラ「ふっかちゃん」、そして「野口源三郎」。もちろん野口源三郎役を演じる永山絢斗さんも、深谷市の人たちから親しみをもたれ愛されています。
2019年2月24日に行われた「深谷シティーハーフマラソン大会」にで、源三郎にゆかりがあるということで永山絢斗さんがスターターを務めたそうですよ。会場に現れた永山さんにプチパニックが起きたほど、盛り上がったそうです。
地元のイベントに野口源三郎役の俳優さんを招待するなんて、深谷市民の「野口源三郎愛」が伝わってきます。いかに郷里の誇りと思われている人物かが伝わってきますよね。
源三郎の生家は丸橋家、育ったのは養子となった野口家。
野口源三郎は1888年(明治21年)8月24日生まれ。生家は、埼玉県榛沢郡横瀬村でした。現在の深谷市です。源三郎が生後100日のとき、母・丸橋筆子が病死してしまいます。源三郎が3歳のとき、母方の郷里・同じ深谷市の親戚、野口八重郎の養子となり、野口家の三男として育てられます。
源三郎、生家は丸橋家でしたが、幼い時に野口家の養子になっていたのですね。野口家は農家、源三郎少年はよく食べのびのびと元気に育ちます!「競馬会」という近所の子で集まったかけっこ大会で何度も1位になります。夏は近くの池で水泳も…というわんぱくな子どもだったようですよ。
大地が育てたおいしいご飯からの栄養、野山を駆け回って鍛えた足腰。亡き母の分まで、深谷の豊かな環境が優しく温かく源三郎を育て大きくしたような気がします。まさに野口源三郎の身体の基礎は、深谷市の自然が作りだした恵みによって培われたものだったということですね。
源三郎、中央新聞地方版に掲載されるほどの事件が…!?
野口源三郎は、すくすく成長、立派な青年になります。1905年(明治38年)4月には埼玉師範学校(現・埼玉大学)へ入学し、1909年(明治42年)3月に卒業。
1909年(明治42年)4月より、深谷市にある母校の岡部尋常小学校(現・深谷市立岡部小学校)訓導となります。
・訓導とは…第二次世界大戦前の日本の教育制度(旧制)における尋常小学校などの正規教員の段階の1つのこと。
青年団長も務めるほど地域に貢献していましたが、青年団の在り方を巡り、地域青年団を取りまとめる校長(村長の親戚筋)と揉めてしまいます…中央新聞地方版に掲載されるほどの事件になってしまい、源三郎は県の視学から詰問を受け、校長は退職するという事態に。
・視学とは…教員、教育事務の監督を主任務とする教育行政的な人たち。教員人事や思想統制に大きな影響力をもつ存在、教育現場では恐れられていました。
野口源三郎は無罪放免となりましたが、この後に埼玉を離れる…という決断に至ったのは、新聞報道で広く多くの人に知られてしまったためでもあるようです。理想と現実…地域をただ良くしようと志した源三郎でしたが、起こしたアクションによって大変な想いをしたことが分かります。
そして、明治の時代で「志」を高く持ち、それを貫くことはとても困難であったことがわかりますよね。この出来事が、後に指導者となる源三郎の「糧」となったのは間違いないでしょう。
埼玉初のオリンピック選手、野口源三郎の誕生!箱根駅伝創設という偉業。
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これほどまでに、文武両道な人物はなかなかいない…野口源三郎の才覚は日本のスポーツ界を劇的に変化させます。功績はあげればキリがありません。NHK大河ドラマ「いだてん」でも今後登場するであろう、偉業の数々を紹介していきます。
陸上競技、そして金栗四三と運命の出会い…東京高等師範学校へ。
源三郎を心配した埼玉師範の教師の勧めもあり、東京高等師範学校(現・筑波大学)の補欠募集に応募、1911年(明治44年)4月、文科研修(地理歴史)体操専修科に進学。
入学直後運命の出会いが…春の校内長距離競走で1学年先輩の金栗四三と一緒に走ることになります。なんと、源三郎は6位、後に日本人初のマラソンオリンピック選手となる金栗四三と最後まで競り合ったといいます。その年の10月6日に行われた、秋の校内長距離競走では、金栗に次ぎ2位…源三郎はわずか半年間で、メキメキと実力をつけてくるのです。
持ち前の運動センスが発揮されます。野口源三郎は、他にも剣道・テニス・水泳・野球など数々のスポーツに取り組んだといいます。何でもこなすスポーツエリートだったのですね。
羽田運動場で行われたストックホルム五輪選考会にもエントリー。マラソンで4位に入賞しましたが、五輪は逃します。
1913年(大正2年)、第1回全国陸上競技大会(後の日本陸上競技選手権大会)が行われました。野口源三郎は、400m継走、走り幅跳び、棒高跳びに出場。棒高跳びでは優勝、残された実績からも本当になんでも器用にこなすカッコイイ人物であったことが分かりますよね。
再び、東京の地へ…指導者としての能力が開花。
1915年(大正4年)3月、東京高師を卒業。長野県松本市に赴任、長野県松本女子師範学校(現・信州大学教育学部)の教諭兼訓導と長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)教諭を兼務しました。3年間、長野県松本市で教鞭をとり、長野県の陸上競技黎明期を切り開き、発展させました。
3年という短い期間で、野口源三郎は「指導者」としての活路を見出します。持ち前の運動センスは競技者としてのみならず、指導者としても発揮されます。
1918年(大正7年)4月1日、東京へ戻り、大日本体育協会の常任理事に就任。恩師・嘉納治五郎の「学校体操教授要目」改革のために尽力します。同じ年に、全国学生陸上競技連合(現・関東学生陸上競技連盟)を金栗らと設立。1919年(大正8年)4月には、母校・東京高師体育科講師嘱託を兼任、教師として母校へ。
辿っていくとわかります、彼の「兼任」の多さ…いかに有能な先生であるかが経歴でよくわかりますよね。二足も三足ものわらじを履きこなす、超人・野口源三郎の凄さはこんなものでは収まりません。これでいて、競技者としても鍛錬を怠らず五輪へ出場してしまうのです。驚きですよね!神は野口源三郎にいろんな才能を授けました。
とうとう五輪へ!アントワープ五輪、ついに野口源三郎オリンピック出場。競技者としての偉業。
1919年(大正8年)4月、アントワープ五輪の予選会が行われます。源三郎は東京第1次予選会に参加し十種競技で優勝、日本代表に選出されます。フィールド競技指導者養成の意味を込めてアントワープ五輪の主将という大役に任命されました。こうして、埼玉出身初めてのオリンピック選手・野口源三郎が誕生しました。
1920年(大正9年)、ベルギーで行われたアントワープオリンピック。開会式で野口源三郎は旗手を務めました。8月20日と21日の2日間にわたり、十種競技が行われます。ただでさえ過酷な競技、寒さと降雨で脱落する選手が相次ぎ…野口も右足腱痛に耐えながら完遂、12位という成績でした。
猛者たちが次々とやめていく中で最期まで競技をやりきった源三郎に大和魂を感じます。世界クラスの大会を経験したことで「教育者」としての彼の胸にフツフツとしたアツい思いが湧きました。その思いが形となったのが「白黎会」…日本代表として戦った仲間たちで作られたこの会、日本のスポーツ発展に尽くすことを誓います。
一選手として五輪に参加しただけでなく、野口源三郎は「これからの日本スポーツを担う指導者」としてベルギーに向かいました。日本へ帰るまでにも、多くの国へ学ぶために訪れたといいます。この五輪で競技者としては引退し、指導者として本格的に生きていくことになります。
オリンピックへ野口源三郎が出場した意味はとても大きかったですね。経験から得た教訓は、何事にも得難いものだということを改めて感じました。先駆者たちがいたからこそ「いま」があるんですよね。
野口源三郎と箱根駅伝、主催者としての偉業。
99年前の今日、1920年2月14日。#金栗四三 らの発案で、第1回 #箱根駅伝 が開催されました✨ 今でこそ国民的イベントですが、第1回の出場はたった4校でした。#いだてん でも雪が残る中、第1回箱根駅伝のシーンを撮影しました🎽
放送は5月、お楽しみに❗ pic.twitter.com/m3ujfLH596— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年2月14日
1919年(大正8年)10月、埼玉県の小学校の運動会に審判として源三郎は呼ばれます。そこへ向かう車中に一緒にいたのは金栗四三と沢田英一(明治大学体育会競走部)でした。この時、なんと歴史的な正月の風物詩の企画案が誕生するんです!
1920(大正9年)2月、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(現在の箱根駅伝)を、「四大専門学校対抗駅伝競走」として開催!野口と金栗の母校・東京高師が優勝をします。
衝撃的ですよね…まさかの車中会議で開催が決定したのが歴史と伝統の「箱根駅伝」だとは。素晴らしいアイデアって意外な場所から生み出されるものなのでしょう。本当は「アメリカ大陸マラソン」という壮大な企画の予選会としてはじまったのが「箱根駅伝」になるそうです。アメリカの企画は残念ながら資金面で断念したといいます。
気になるのは「いだてん」でこの場面がどう描かれるか、ですね。宮藤官九郎さんのことだから、こんな面白いこと見逃すはずがないでしょう。きっとユーモラスに描いてくれるのではないでしょうか。いまから期待してしまいます!!
野口源三郎という人物…子孫について。
1917年(大正16年)4月1日、野口源三郎は生駒豊子さんという女性と結婚しました。野口源三郎には2男2女の子ども達がいました。「理解あるパパ」として尊敬され、源三郎の死後、筑波大学へ野口の長男から12冊にも及ぶ日記帳が寄贈されたそうです。家族にとってもいい父親であり、知れば知るほど非の打ちどころのない素晴らしい人です。
そんな野口源三郎にも、意外と感じるユニークな面があったそうです。「長距離を走っているとゴール直前で腹が減る」という妙なクセ…です。1911年(明治44年)春の校内長距離走では、なんと残り500m地点で近くの民家に飛び込み給水し6位になりました。
同じ年の11月にも、羽田選考会での復路・鶴見付近で空腹に襲われたので駄菓子屋に駆け込み、パンをつまみ食いしようとしていたところお店の老婆に叱られてしまいました…このエピソードは、よく教え子たちに語り聞かせていたそうですよ。
#いだてん 第5回をご覧いただきありがとうございました。#野口 がレースの途中、通りがかりの商店に飛び込んでパン🍞を食べたこと、首位を走っていた小樽水産の #佐々木 と #四三 の奇妙なにらみ合い、 #弥彦 が審判をしていて飛び入り参加したこと、これらは記録があるエピソードです❗ pic.twitter.com/gvOvx5BKvl
— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年2月3日
ドラマ「いだてん」の作中でも、野口源三郎(永山絢斗)の羽田選考会シーン再現されていましたよね。コミカルに描かれ、思わずクスクス笑ってしまいました。史実に基づいたお話が出てくるのは見ていて楽しいですよね。
晩年…研究者・野口源三郎の輝ける功績。
外でも休むことなく、日本のスポーツ界のために尽力したことが、経歴でもよくわかります。たくさんの肩書を持ち、多くの弟子たちを育てました。もしかしたら、未来を担うアスリート達のことも自分の子どものように思い指導していたのかもしれませんね。
晩年は「研究者」として、陸上競技や学校体育に強い関心を寄せ、精力的に研究活動を行いました。源三郎の科学と実践の観点で陸上競技を考える考え方は、現在も活きています。この研究がどれほどのアスリートに影響を与え、パフォーマンス向上に貢献したか…計り知れませんよね。
1921年(大正10年)、大日本体育協会理事に就任
1924年(大正13年)、パリオリンピックで日本選手団監督を務める
1925年(大正14年)、東京師範学校の教授となる
1949年(昭和24年)、東京教育大学の教授に就任
1950年(昭和25年)、日本初の体育学部長に就任
1952年(昭和27年)、名誉教授に就任
野口源三郎は、長年に渡る日本の体育界への素晴らしい功績を称えられます。本当に素晴らしいですよね。
1933年(昭和8年)、日本陸上連盟から「第1号功労賞」を授与
1960年(昭和35年)、「紫綬褒章」を授与
1964年(昭和38年)、「勲三等瑞宝章」を賜る
野口源三郎は1967年(昭和42年)3月16日、80歳で亡くなりました。
交友関係も幅広く、多くの人たちに尊敬された野口源三郎…数々の功績は今も色あせることなく、日本スポーツ界の中で光り輝いています。
【まとめ】野口源三郎が箱根駅伝の考案者?子孫と生家の深谷市との関係を調査!
いだてん、深谷出身の野口源三郎も出るから要注目だぞ!!
深谷市の広報にも載ってるぞ! pic.twitter.com/Zt8kswSVqh— おかかたろ (@okakataro) 2019年1月7日
野口源三郎、いかがでしたか。調査すると、これほど人生に厚みのある人物はなかなかいないと思わされます。
「競技者」、「指導者」、「教育者」、「主催者」、「研究者」…いくつもの才能を野口源三郎は持ち合わせていました。源三郎は、その能力を最大限にフル活用し、日本スポーツの礎を作りあげました。
NHK大河ドラマ「いだてん」、こんなに深くてアツい、実在した登場人物がいるということを忘れないで楽しんで観たいですね。
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