シャーロット・ケイト・フォックス演じる大森アニー(大森安仁子)は、NHK大河ドラマ「いだてん」の出演者の中でも人気の人物です。

シャーロット・ケイト・フォックスさんの美しさが話題となっていますが、出演が決まったとき、彼女は徹底的に「大森アニー」について勉強したそうです。きっと成果が人気に繋がっているんですね。

明治の時代、まだまだ珍しい日本人に嫁いだ女性・大森安仁子とはどんな人物だったのか、興味が湧いてきますね。大森アニーの画像や話題の絵、子供や年の差結婚、オリンピックについて調べたことを紹介していきます。

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Annie B.Shepley(アニー・シェプリー)が大森アニー、そして大森安仁子になるまで

https://www.gllc.or.jp/profile/history

この絵画は、大森アニーが描いた夫・大森兵蔵の肖像画の画像です。大森アニーは、日本に最初にバレーボールとバスケットボールを紹介した大森兵蔵と結婚した女性です。

大森アニーの生い立ち

大森アニーは、本名Annie B.Shepley(アニー・シェプリー)と言います。1856年(安政3年)12月7日、アメリカのミネソタ州のシェプリー家に生まれました。シェプリー家は元々イギリスからの開拓民、裕福な家庭でした。

アニーは、幼いころから画家になるという夢をもっていました。でも17歳の頃に父が殺害されるというショッキングな出来事が起こります。「絵を描き画家として生計を立てたい!」という夢を一旦諦めざるを得なくなるのです。

ところが、家族の励ましと従兄弟の支援により、ボストン美術館大学へ進学。夢であった絵を学ぶ機会に恵まれました。

アニーは絵の才能が開花、ニューヨークで絵の教師をしながら「オリエンタリズム」の代表的な師匠ハリーに学ぶなどしたのち、師匠ハリーに後押しを受けパリに画家として渡るなど、絵の世界にのめり込んでいきます。

運命の人・大森兵蔵とアニーの出会い

アニーは肖像画や児童書の挿絵を描く仕事を数多くこなすまでになっていました。より落ち着いて絵を描くため、アメリカのニューヨークとコネチカット州ウットストックに自らのアトリエを設けます。

画家として成功したアニーは、もっと絵画の制作に専念したいと、コネチカット州の家に家政婦(ハウスボーイ)を雇うことにします。

彼女は、国際YMCAトレーニングスクール(現スプリングフィールド大)に「家政婦募集」をします。夏休みの学生なら、丁度アルバイトを探しているかもしれない…と考えたんですね。

その募集に目を留めた学生が、国際YMCAトレーニングスクールに在学し、専門的なスポーツ知識を学んでいた日本人学生・大森兵蔵でした。

このときアニー・シェプリーは49歳、大森兵蔵は30歳でした。大森兵蔵が家政婦の募集に応募してきたことによって、ふたりは運命の出会いをします。

まるでドラマのような展開ですね。これまで絵を描くことに一生懸命だった女性が、ここから運命の恋に落ちていくんです。

アニー、大森兵蔵とお付き合いすることに…

大森兵蔵は家政婦に合格!夏の間だけ雇われることになります。家政婦として雇用された大森でしたが、初日から料理が上手く作れなかったそう…そのため、2日目からはアニーが料理。ふがいなく思った兵蔵は、家政婦を辞めることを申し出ます。

ところが、アニーは彼を気に入っていたので…なんと料理人を別に雇ってまで、大森兵蔵を引き留めました。

独身を貫いていたアニーにとって、異国から来た若い大森兵蔵の存在はどう見えたのでしょうか。料理ができないのに留め置くというのは…もうすでに好意を抱いていたように感じます。「兵蔵は、キリストを彷彿させる容姿だった…」と、後に彼女は話していたそうです。

アニーの使用人として兵蔵は夏休みの期間働きます。2人は次第に惹かれあうように。休みが明け、使用人としての雇用が終えても、文通し合うことで想い合っていきました。

肖像画の画像からも伝わる愛情、年齢と国境を超えた愛…大森兵蔵とアニーの年の差結婚!

お互いの愛を確かめ合い2人は交際。この時アニー・シェプリーは50歳、大森兵蔵は31歳のときに結婚を意識し始めます。国籍や20歳近い年の差結婚という壁を乗り越えて、1907年(明治40年)10月1日、2人はアメリカで結婚式をあげました。

ついにアニー・シェプリーから、大森アニーに!翌年、1908年(明治41年)、大森兵蔵と大森アニーは日本に帰国します。

アメリカでもこの2人の結婚は稀なこととして新聞にもとりあげられたそうです…日本の方が当時は「結婚観」が堅いイメージがありますよね、日本での2人は大丈夫でしょうか。

大森アニー日本へ。夫・大森兵蔵とめぐまれない子供のための福祉活動に尽力

大森兵蔵は帰国後、東京YMCAに就職、体育指導主事となります。兵蔵は、バスケットボールとバレーボールを初めて日本に持ってきました。その功績は現代にも広く伝わっています!

輝かしい功績の陰で、先駆的な兵蔵の考えは日本で受け入れられる事が無く、わずか1年後の1909年(明治42年)に東京YMCAの体育指導主事を辞することとなるのです。

大森兵蔵とアニーは、有志の婦人たちを集めた「有隣夫人」を設立、そして1911年(明治44年)には児童福祉施設である「有隣園」を設立します。明治の時代には珍しいめぐまれない子供のための福祉施設、授産所・幼稚園・図書館等を備えた複合施設であったとされています。

その後…有隣園(東京都新宿区)は戦火で焼失。しかし、安仁子が晩年過ごした地・山梨県河口湖畔に2012年(平成24年)に建設された「セミナーハウス有隣園」があります。

※こちらのセミナーハウスは、利用の際、会員の紹介が必要です。

セミナーハウスの横には、1937年(昭和12年)に建てられた「有隣園資料館」が隣接、大森安仁子が米国から持参した19世紀半ばの貴重な書籍が約1600冊保管されているそうですよ。

【有隣園資料館】

山梨県南都留郡河口湖町河口字広瀬2351

https://www.gllc.or.jp/project/yurinen

有隣園資料館は2012年8月(平成24年)に国の登録有形文化財に指定されました。

https://www.gllc.or.jp/project/yurinen

資料館の中には、大森安仁子さんの作品がかけられているそうです。

日本へ帰化した大森アニー、日本名・大森安仁子になる。

1911年(明治44年)、アニー・シェプリーは日本へ帰化して「大森安仁子」となりました。

それに至るまで時間がかかったのには理由があります。大森兵蔵の実家はアニーとの国際結婚を認めてもらえず、結婚は猛反対されていたのです。結婚から4年、ようやく両親に2人の結婚を認めてもらうことができました。

大森安仁子と名乗るまでに4年、ふたりの愛の努力が「国際・年の差結婚」を周囲に認めてもらうまでたどり着いたんですね。慈善事業に従事するなど、大森夫婦の「志」の高さは、今を生きる私たちにも見習うべき部分がたくさんあります。

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オリンピックと大森安仁子、兵蔵と安仁子それぞれの最期…

 

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ストックホルムオリンピックと大森安仁子

夫・大森兵蔵は、日本が1912年(明治45年)に開催されるストックホルムオリンピックに参加するため奔走します。五輪参加へ向け、まずはじめに、大日本体育協会(現日本体育協会)を設立し、大森兵蔵は理事長となります。

オリンピック参加は実現し、長距離・金栗四三、短距離・三島弥彦が選出。ストックホルムへ行くことが決定します!

大森兵蔵、安仁子と共に最後まで日本人を世界基準に…という志を貫いた最期

 

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兵蔵は、日本選手団監督としてストックホルム渡航に同行することが決まります。肺結核を患っていた兵蔵、命を削るあまりにも過酷な旅でした…大森安仁子も一緒にストックホルムに向かい、言語の面でもチームのサポートをします。

兵蔵の夢を思うと監督になることを止めることはできなかったのかもしれません。妻として「夫の夢を支えたい」という想いが強かったのでしょう。五輪スタッフとして同行する大森安仁子にとってもストックホルムは「兵蔵の病魔との戦い」の場所になるのです。

ストックホルムで兵蔵は体調が悪化、部屋からほとんど出ることが叶いませんでした。傍らに常に寄り添い看病を続けた安仁子、療養する夫を支え続けました。

日本へ帰国せずそのまま留まり、一度病状を持ち直した兵蔵。大森安仁子の親戚のいるアメリカに向かい、そこで再び病状が進行してしまいます。1913年(大正2年)、大森兵蔵は37歳でこの世を去りました。

重い病気を患いながらもオリンピックへ同行した大森兵蔵、日本人が世界へ羽ばたくことをずっと願い続けた人物です。その「想い」を一番理解していた大森安仁子は、最期まで支え続けました。

大森夫婦に子供はいませんが、2人にとって「有隣園設立やストックホルムオリンピックへの日本参加実現」ということが、夫婦の子供のようなものだったのではないでしょうか。大森安仁子、まさに妻の鏡ですよね。

大森安仁子、最期まで亡き夫の母国で暮らしながら絵を…日本人であり続けた素敵な女性

アメリカで大森兵蔵が病死、大森安仁子はそのままアメリカに残ることもできました…しかし、遺骨とともに安仁子は日本へ帰国。夫・兵蔵と築いた有隣園の運営を行っていきます。

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災ではボランティア活動をし、世のため人のために働いたのです。彼女は、親と離れてしまった子どものケアをしたり、仮設の住居の管理をしたり、多くの困っている人たちを救ったそうです。

しかし、戦時中の反米感情により有隣園と大森安仁子は厳しい状況に追いやられます。有隣園は、1931年(昭和6年)位から縮小せざるを得なくなります。その後空襲で焼け落ちてしまい再建されることはありませんでした。

大森安仁子は、兵蔵を偲んで喪服しか着なかったといいます。生涯、兵蔵への愛は変わらないまま、1941年(昭和16年)85歳で老衰で亡くなりました。

最期まで夫を愛し続けた大森安仁子。生涯通してみても、とても愛情深い女性だということがわかりました。世界の情勢の中で、反米感情が強まっていた日本で暮らすことは大変だったはずですよね。

でも彼女は最期…兵蔵の肖像画と、よき理解者たち、そして日本の親族に囲まれて亡くなりました。大森安仁子という素晴らしい人物が、生まれた国は違っても、日本人を愛し、日本人となった女性がいてくれたことを誇りに思います。

【まとめ】大森アニーの画像や絵は?子供や年の差結婚とオリンピックについて調査!

日本のスポーツが世界のトップレベルになっている現在、見事に大森夫妻の目指した未来が実現していますよね!きっと喜んでくれていることでしょう。日本のためにこんなにも命を削って尽力された人物がいた…ということを忘れてはいけないと思いました。

年の差も国も超える愛がふたりにはありました。遠い昔の歴史の中に、こんな素敵な夫婦がいたということを知りました。確かに「いだてん」の中の大森夫妻も愛に満ちた素晴らしい2人です!

オリンピックだけでなく選手を支える人々にも、素敵なドラマがあるのだと思うと、応援するキモチも変わってくる気がしますよね。

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