第1部ストックホルム編が無事壮大に幕を閉じたNHK大河ドラマ「いだてん」、いよいよ第2部東京オリンピック編がスタートしました!近代に近づくにつれ物語の疾走感がフルスロットで加速、内容が右肩上がりで面白いと話題です。
第2部は、個性派俳優の阿部サダヲさん演じる、東京にオリンピックを招致した男・田畑政治が主人公。政治という名前にリンクしたように、スポーツだけでなく、政治色強めのストーリーが面白いと評判です。
その中でもひと際ミステリアスで異彩を放つ登場人物がいます。リリーフランキーさん演じる緒方竹虎という男!彼は、大正という元号をスクープし、日本版CIAを作ろうとした上に、なんとスパイとして疑われたという興味深い人物です。後に大物政治家となり、日本を大いにザワつかせる人なんですよ。
それでは、日本をザワつかせた男・緒方竹虎の経歴について紹介していきます。
目次
戦後政界の超大物と言われた、緒方竹虎の幼少期から青年期の経歴とは?
リリー・フランキーさんが演じてる朝日新聞編集局長の緒方竹虎氏ご本人#いだてん pic.twitter.com/8xi5Xr7LTI
— アキ (@aki_sweetdays) 2019年7月1日
東京五輪招致を成功させた田畑政治を可愛がり、後押しした男…緒方竹虎。
大物政治家として有名な彼はどんな生い立ちだったのでしょう。まずは、幼少期~青年期を…そして政治家としての礎を築いた大学時代の緒方竹虎について調べてみました。
緒方竹虎の幼少~青年期について
緒方竹虎を堪能するための大河ドラマ! #いだてん
— あずま鑑 (@HQVJF9) 2019年7月7日
緒方竹虎の緒方姓は、祖父・大戸郁蔵が血筋である幕末の蘭学医・緒方洪庵と「義兄弟の盟」を結んだことから与えられた姓です。竹虎は、1888年(明治21年)1月30日、山形県山形市旅籠町生まれ。山形県書記官・緒方道平の三男としてこの世に生を受けます。
竹虎が4歳のとき、父親の転任により福岡県福岡市に移り住みます。さすが未来の大物というべきか、福岡で通った小学校から中学校通して無欠席・無遅刻・無早退…彼は、なかなか常人にできることではない素晴らしい学生生活をおくります。
福岡県立中学修猷館に進学し、一到館に入門し剣道を習いはじめ、剣道の小野派一刀流免許皆伝となり、腕前は誰もが認める達人級に…。竹虎終生の友・斎村五郎から「あの人が剣道1本に精進していたら、ぼくなどよりはるかに強くなっていただろう」と言われるほど剣道の才覚があったと言われています。
親友とも呼べる存在の人物が思わず認めてしまう剣豪としての実力、いかに彼が凄かったかが伝わってきます。
緒方竹虎と大学昇格運動
緒方竹虎は、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学、専攻部廃止の文部省令に反対して学生総退学決議を行った申酉事件のリーダーとして責任をとり退学。竹虎は中野正剛に誘われて、甲酉事件を支持し東京高商退学生受け入れを表明していた早稲田大学専門部政治経済科に編入します。
そこで政治結社玄洋社の最高実力者・頭山満と出会い、さらに彼を通して三浦梧楼、犬養毅、古島一雄らの門に出入りしました。
大河ドラマ「いだてん」で出てきた事で、緒方竹虎と河野一郎が注目されている。二人とも総理にはなれなかったが、政界の大物としていくらか伝記なども書かれている。
— ファランクス兵士 (@shinshigeru1952) 2019年7月9日
申酉事件とは…1908年(明治41年)~1909年(明治42年)にかけて起こった東京高等商業学校(現在の一橋大学)と文部省との間の紛争事件・学校騒動。大学に昇格させたい東京高等商業学校は10年間奮闘したが挫折。運動を進めた校長や教授も問責を問われ辞職に追い込まれたもの。
緒方竹虎が子どもの頃、彼の父親は自らが不条理と思う退官させられたとき、「お前らは一生役人になるな」と教えたといいます。父の教えは、自らの意志を強く持ってリーダーシップをとる姿勢、青年時代の竹虎の行動を見ると確実に活きていると思えます。
緒方竹虎の幼い頃から青年時代を知ると、文武両道、健康な肉体と強靭な精神を兼ね備えた青年…そんな印象を受けます。洗練されたこの青年が、後に日本を揺るがす存在となっていき、次第に政治の道に惹かれていったのは、運命に導かれていった…そんな気がしてきますよね。
明治から大正へ。緒方竹虎、元号スクープで鮮烈な記者デビュー!
縁深き中野正剛に再び導かれ、ジャーナリストとしての道を歩みだす…若き、緒方竹虎青年。入社早々、インパクト大、エース級のネタ、年号「大正」という情報を独自に入手しちゃうんですよ!
緒方竹虎、激動の朝日新聞社時代がはじまります。
前代未聞、新人記者・緒方竹虎が元号「大正」をすっぱ抜き!!
1911年(明治44年)7月、早稲田大学専門部を卒業。またもや中野正剛に誘われ、この年の11月に大阪朝日新聞社に入社、弓削田精一率いる大阪通信部員(東京勤務)となりました。
早稲田在学中に出入りしていた枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープしました!新元号を知ろうと多くの記者が奔走する中での、この朝日新聞のすっぱ抜き記事…どう考えても凄いという一語に尽きます。2019年「令和」となったときも、緒方のスクープの話題が取り上げられていたので記憶に新しいかもしれません。
当時、派閥争いが熾烈であった社内。幾度もその戦いの煽りを受けた緒方竹虎は、左遷されエリートコースから外されたり、職場に居辛くなったりします。1920年(大正9年)、竹虎は、とうとう退社を決意するまでに追い込まれます。
退社決意後、玄洋社員・安川敬一郎(安川第五郎の父)の出資でイギリスへ私費留学します。彼の人生には玄洋社が要所で救いの手を差し伸べています。竹虎が、いかに政治に顔の利く可愛がられた存在であったかが理解できますよね。
ニューヨーク特派員だった美土路昌一は、緒方の退社意志を聞きます。1921年(大正10年)、東京朝日新聞社通信部長として帰国した際…美土路は、朝日首脳陣に緒方慰留を働きかけ、竹虎をワシントン会議取材の記者団に参加させました。
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新人記者ながら新元号が「大正」になるという事前スクープしたのは、緒方竹虎の経歴においてとても重要なことでした。一目置かれたのは間違いありません。そんな緒方竹虎でさえ、派閥争いにはあらがえなかったのですね。
派閥同士のせめぎ合いがあるのは、政治の世界に似ています。朝日新聞社内の勢力争いに揉まれたお陰で、緒方竹虎は「野心にまみれた人たちの中で生き抜く力」を身に着けました。政治家に必要な能力を着実に培っている気がします。ここから、怒涛の快進撃がはじまります!
朝日新聞社…緒方竹虎、出世街道まっしぐらの軌跡
若かれし頃の緒方竹虎氏。
いつの写真だろうか。昭和初期くらいかな。#緒方竹虎 pic.twitter.com/FQ4PcHoXp9
— かんた (@kan_1224leni) 2019年7月12日
1922年(大正11年)、日本に帰国。緒方竹虎は、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任
1923年(大正12年)、4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に政治部長となる
1924年(大正13年)12月、支那部長兼務となった
1925年(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と重責を兼務
1928年(昭和3年)5月、取締役
1934年(昭和9年)、4月に主筆制採用で朝日新聞社主筆。5月に常務取締役に就任。
【西日本新聞・声に出して読む講談「福岡立志伝」より】
6月30日~のNHK大河ドラマ「いだてん」に、リリー・フランキーさんの扮する緒方竹虎がついに登場!この講談の方が、先行しています。
いよいよ二二六事件に遭遇する緒方竹虎と、親友中野正剛の自刃です。ドキドキしますよ! pic.twitter.com/iRNf3WlgLl— 講談師 神田紅 (@kandakurenai) 2019年7月1日
1936年(昭和11年)、二・二六事件まで朝日新聞社の責任者だった副社長・下村宏退社後の後任として4月から代表者となる…5月には緒方の手腕で筆政一元化を実現、緒方竹虎が朝日新聞社主筆・代表取締役専務取締役に。
緒方竹虎は、外部に対して朝日を代表する者と見られ、一切の責任を負う立場になりました。名実ともに「朝日新聞社の顔」となったのです。
緒方筆政により、朝日新聞社内の緒方への権力集中が加速。むしろ、反発する「反緒方派」が台頭してくるエネルギーになってしまい、勢力拡大に拍車をかけてしまいました。
さらに緒方を窮地に追い込んだのは、1943年(昭和18年)10月、親友・中野正剛が自殺した事件です。
「中野正剛事件」…首相・東條英機の意に沿った憲兵隊に中野正剛が身柄拘束され釈放後に自殺した事件。
緒方竹虎と時の東條内閣との確執が社に誇大に伝えられ、朝日新聞社としては政府との関係を修復するため緒方を代えるほかなくなってしまったのです。
事件があった同じ年の12月、朝日は主筆制を停止。緒方を主筆から解任、実権のない副社長へ。
それを受け緒方竹虎は、1944年(昭和19年)7月。小磯内閣に入閣するため、朝日新聞社を退社しました。いよいよ、政界進出です!
不屈の精神の男・緒方竹虎の政治家としての経歴
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華麗なる政界デビューかと思われた緒方竹虎。しかし、時代は戦争の最中な上に、政治家としての彼の試みはことごとくうまくいかないのです。
時代の大きな動きに翻弄された緒方竹虎の政治家人生を紹介します。
緒方竹虎、ついに華麗なる転身…政界進出!
#いだてん 緒方竹虎スゴイ。新聞社から政治に行く人は結構いたのか(不勉強ですみません)。
リーリー・フランキーさんが、声を荒げるわけでもなく、威圧的でもないのに、みんなついていく感じが、デキル人って感じでよい。デキるだけに、わがままな田畑は、むしろカワイイと思うタイプなのかな。— つづる (@tuduru645) 2019年7月8日
朝日新聞退社後、1944年(昭和19年)小磯國昭内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣しました。
時代は戦中真っ只中です。国家の情報宣伝を行うのが情報局の役割。情報局総裁である緒方は、戦局に関する十分な情報を入手していることが必要…しかし、陸軍が非協力的で情報を得ることはできませんでした。情報政策の要である「情報局」が、自前の情報収集源を持つことができなかったのは、致命的でした。
また、中華民国・蒋介石率いる重慶国民政府との和平工作を小磯首相と共に推進します。これは、外務大臣・重光葵、陸軍大臣・杉山元、海軍大臣・米内光政の3人に加え、昭和天皇からも反対され…和平工作は失敗。1945年(明治20年)3月、小磯内閣は、内閣総辞職に追い込まれました。
緒方竹虎の初入閣・政界デビューは、2つの大きな失態により…すこしほろ苦い結果に終わります。終戦直後、1945年(昭和20年)8月…東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任します。
東久邇内閣…皇族が首相となった史上唯一の内閣であり、在職日数54日間という史上最短の日数の内閣である。敗戦処理を担った東久邇内閣は、大番頭・緒方の他に、朝日新聞社出身が多数携わり「朝日内閣」ともいえるような組閣内容でした。しかし、1945年(昭和20年)10月には内閣総辞職。
緒方竹虎は、1945年(昭和20年)12月A級戦犯者指名を受け、1946年(昭和21年)8月には公職追放されます。A級戦犯指名がなければ、緒方は朝日新聞社の社長に就任するはずでした…チャンスを逃す結果となってしまいました。
いつも肝心な場面で運命のいたずらのように、するりと成功が手からこぼれ落ちていくような紆余曲折を経る緒方竹虎。普通の人ならば、ここで心が折れて投げ出してしまいそうな所を、彼は不屈の精神で運命に立ち向かっていきます。この生き方は誰にでも真似できるものではありません。さらに過酷な政治道へ、自ら足を踏み入れていくのです。
緒方竹虎、親友の地盤から再び政治の表舞台へ
緒方竹虎は、1947年(昭和22年)9月に戦犯容疑解除、1951年(昭和26年)8月に追放解除されます。彼の政治への意欲は枯れてはいませんでした。再起し、見事に日本のトップに最速で駆け上がるんです。
1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で亡くなった盟友・中野正剛の地盤を引き継いで福岡1区から出馬。当選1回ながら緒方は、第4次吉田内閣で国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総裁に任命されます。1953年(昭和28年)5月成立の第5次吉田内閣でも副総裁となります。
要職大抜擢の要因は…吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介と、東久邇宮内閣のときに吉田茂を外務大臣に推薦したのが緒方竹虎であったためです。
いつも人生の岐路で緒方竹虎を導いてくれたのは、中野正剛でした。亡き友の地盤からの再出発という所に、彼の「想い」と「志」を大事にする政治道のカッコよさを感じますよね。
緒方竹虎は、社会からの疎外感を味わってもめげない強い心を持ち、ブレない信条を持って生きています。「自分を持って生きる」ということが、いかに人生を豊かにするものであるか…ドラマよりドラマチックな彼のようには生きれなくとも、学ぶことが多いです。挫折をバネに、着実にステップアップしちゃうんですよね。
「日本版CIA」の設立を目指した男…緒方竹虎とCIA
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「日本版CIA」気になりませんか?緒方竹虎は、怪物と恐れられた最強の人物です。緒方竹虎は、日本国内に中央情報局をつくりたいという大きな夢を抱いていました。情報は宝物であるという、新聞社出身の彼らしい発想ですよね。まずは緒方竹虎が憧れたアメリカの最強組織・CIAについてすこし紹介します。
アメリカの最高機関ともいわれるスパイ機関・CIAとは?
CIA…「Central Intelligence Agency」の略語、日本語にすると中央情報局。主に、外国での諜報を行うアメリカ合衆国の情報機関(スパイ機関)のことです。
連邦政府では介入不可な案件、かなりきわどいことをやってのけるアメリカが世界に誇る組織。「もう1つのアメリカ政府」や「クーメーカー(クーデターメーカー)」なんて異名も!
アメリカ軍からは独立していて、国家安全保障会議の直轄機関。この組織は不透明で秘密が多く、ミステリアスな謎めいた活動をしているため、度々エンターティメントの題材として扱われます。「CIA」と出てきただけで気になってしまう、この単語の求心力は半端ないですよね。
例えば、アメリカのテレビドラマシリーズ『HOMELAND』は、CIAの活動をテーマにしたスパイ・スリラードラマとして非常に人気のある作品です。CIAスパイの諜報活動がリアリティたっぷりに描かれています。
『HOMELAND/ホームランド』この海ドラ、久々にハマりました。CIAがイラク帰還兵をめぐる疑惑を追うサスペンスで、設定が妙にリアル。『24』の製作陣が手がけただけあって、完成度も高い。ぶっ飛んだヒロイン役のクレア・デインズの鬼気迫る演技がヤバい。6月5日レンタル開始。(Da)
— サードアイ/thirdeye (@3_eye) 2013年4月30日
ちょっと怖い機関…そんな印象の強いこのCIAの「日本版」を組織しようとした男が、今回紹介する「緒方竹虎」なんです。怖いけど、アメリカを裏から支える凄い組織ですよね。そして謎めいたその活動に惹かれてしまうのも確かです。
日本でスパイを育成しようとするなんて、なかなか興味深いですよね。どんどん緒方竹虎に興味が湧いてきますよね。
日本版CIA構想を立ち上げた緒方竹虎ら、ついに日本版CIAを作るべく始動!
「治安関係者だけでなく、各省各機関バラバラと言ってよい内外の情報を1つにまとめて、これを分析、整理する連絡・事務機関を内閣に置くべきだ」
「外務省情報局に代わるべき内閣直属の情報機関が必要」
時の首相・吉田茂は、このような意向を強く持っており、副総裁・緒方竹虎も同じ志を抱いていました。。情報局総裁や朝日新聞社のトップを務めた緒方は、「情報」の大切さをよく知っていたからですよね。特に、情報局時代は陸軍に妨害されて何もできなかった…という苦い経験もあります。
1952年(昭和27年)、緒方竹虎は吉田茂らと共に内閣総理大臣官房に「調査室」という情報機関を設立します。調査室は、アメリカのCIAなどを参考にして作られ、日本版CIA構想の先駆けとして創設されました。組織編成には元内務官僚で国家地方警察本部警備課長の村井順なども積極的に加わりました。
しかし、この「日本版CIA構想」は、国会や外務省、世論の激しい批判を浴びることになります。勢いよく掲げた構想でしたが、彼らの熱意は理解されることなく、最終的には「調査室」の拡充・強化だけにとどまってしまいます。
もしこの調査室が日本の大規模な「中央情報機関」になっていたら、日本はいまどんな国になっていただろう…と想像するだけでも面白いですよね。いまの日本も好きですが、違う日本があったかも、と。
日本人スパイが諜報活動していたかも知れないというかっこいい妄想に心が躍ります。勤勉な日本人のことだからスパイとしても優秀だったのではないかと、思ってしまいます。野心家・緒方竹虎の志のでっかさと行動力の凄さに魅せられました。
緒方竹虎、総裁目前での急死…
吉田政権末期、政治史ではとても有名な「バカヤロー」解散がおこります。1953年(昭和28年)2月28日の衆議院予算委員会で吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員の質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれます。
実は事が起こっても、吉田茂は「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃくで、政権の維持に執念を燃やしていました。それに反し、緒方竹虎は、自らの政治生命を賭けて内閣総辞職を主張し、それを吉田茂に認めさせてしまい1954年(昭和29年)「バカヤロー解散」させてしまうんです。
「もし総理が解散を強行すれば私は閣僚として解散書類に署名しません。むしろ政界から引退します。かっこうの悪い西郷になりますよ」と直言したのだそうです。緒方がいかに政権内で発言力を持っていたかが分かるエピソードですよね。時の総裁を説き伏せる力を、彼はもう持っていました。
やっと自由党は吉田総裁の後任を緒方竹虎に任せます。そして、新たに自由民主党が結党されると緒方竹虎は総裁執行委員に就任しました。その後、1955年(昭和30年)1月に鳩山内閣が「天の声解散」。
しかし、夢半ば…緒方竹虎は党支部結成大会で全国を飛び回ったために睡眠不足と過労の蓄積で体調を崩し、心臓発作を起こしてしまいます。1956年(昭和31年)1月28日、東京都品川区五反田の自宅で急性心臓衰弱のため、享年67歳で急逝しました。
河野さんも緒方さんも、総理の椅子を目前にして亡くなったんだよなぁ・・・#いだてん#河野一郎#緒方竹虎
— 沢村紀千助@27日→コスカラ/28日→潮まつり (@kichisuke0208) 2019年6月30日
総裁公選となれば、旧自由党の方が結束力が固く、緒方竹虎が初代自民党総裁に選出される可能性が高かったと言われています。緒方の急死がなければ、戦後政治史の歩みも大きく変わった…そう語り継がれています。そう、語られている理由がもう1つ…緒方とCIAの関係についてを次にご紹介します。
伝説の男・緒方竹虎にささやかれるスパイ疑惑とは?
緒方竹虎がCIAの協力者で、CIAが緒方政権擁立のために様々なな工作を行っていたという説があるようです。次は、謎めいたアメリカの組織CIAと緒方竹虎の密接な関係について調査してみました。
公文書研究者・有馬哲夫は、CIAから資金提供を受けて活動した日本で初の政府高官が緒方竹虎であったと述べています。政治の世界も掘り下げてみると、国と国というより、人間味があってとても面白いですよね。アメリカは、数々の政治工作をします。スパイ映画のようで、ちょっとワクワクしてしまいます。
CIAは緒方を情報源としても信頼していて、緒方から提供された日本政府や政界の情報などは、CIA長官に直接報告されていたそうです。とっても怖くてきな臭い感じがしますが、その当時のCIAは秘密組織ではな買ったので、緒方も自覚的なスパイではないと加藤哲郎は結論づけています。
緒方が亡くなった時、CIA長官が遺族に弔電を送ったそうです。それだけ、米国にとって緒方竹虎は大事な人であったのです。本当に緒方竹虎という人は、なんて大胆不敵な人物なのでしょうか!
本当に驚かされます。スケールの大きさが違いますよね。加藤さんは否定していましたが、日本初のスパイと言ってしまいたくなってしまします。もし、彼が日本のトップに立っていたら、いまの日本はどうなっていたのかという想像をめぐらせると、楽しくもあり恐ろしくもあります。
経歴を調べれば調べるほど凄味が増します。現代の政治家に感じるモノとは明らかに異なる印象ですよね。真の「大物」とは、緒方竹虎のような人物の事を言うのでしょう。
最後まで「日本版CIA構想」に拘り続け、懸けて生きていた彼の生き様は素晴らしいです。この奥底に野望を秘めた人物・緒方竹虎を、名優リリー・フランキーさんがどう演じるのか、楽しみで仕方ありませんね。
完璧となった男・緒方竹虎は甘党だった…彼の愛した好物
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博多銘菓・鶏卵そうめんが大好物!銘菓・鶴乃子も愛していたと言います。…かなりの甘党な緒方竹虎。大好物が広く知られているなんて、なんだか親しみを感じますよね。
なんと100年以上愛されている銘菓・鶴乃子、食べることができるのです。黄味あんをマシュマロで包んだ絶妙な味のハーモニーと「ぷにゅぷにゅ感」が堪らないらしい…食べてみたいですよね。
「いだてん」でも緒方竹虎役のリリーさんが食べている描写が出てくるのではないか…と少し期待してしまいます。
【まとめ】「緒方竹虎の経歴を調査!大正元号のスクープとCIAのスパイって本当?」
\新キャラクター紹介📢/#田畑政治 の上司・政治部長の #緒方竹虎(#リリー・フランキー)。猪突猛進でスクープのとれない田畑をなぜか可愛がる。言論の自由と軍部の圧力の狭間で苦悩。のちに政治家に転身、副総理などを務める。
第2部 #田畑政治篇🏊🏻♂️ 6/30いよいよスタート❗️#いだてん pic.twitter.com/61X4djdsNQ
— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) 2019年6月28日
日本の戦中と戦後を支えた大物政治家・緒方竹虎、いかがでしたか?
挫折しては這い上がるということを繰り返した不屈の経歴と、日本初のスパイと言っても過言ではないCIAとの肝の据わった関係性…波乱に満ちすぎている生涯に終始魅了されました。日本にあの有名なCIAのような秘密組織が存在していたかもしれなかったという事実は、無性にワクワクさせられますよね。日本に気概のある政治家がいたこと、忘れないでいたいです。
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