日本選手団が初めて参加したストックホルムオリンピック。日本スポーツ界にとって大きな1歩であった記念すべき大会です。

北欧スウェーデンで行われたこの大会に参加した日本選手は2名。マラソンの金栗四三選手、短距離走の三島弥彦選手です。特に、金栗四三は事前に2時間32分45秒という世界新記録を出していたため、世界的にも注目度の高い選手でした

ストックホルムオリンピックマラソンについて、気になる金栗選手の結果などについて調べたことを紹介していきます

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ストックホルムオリンピック

ストックホルムオリンピックは、第5回の夏季オリンピック競技大会です。

期間:1912年(明治45年)5月5日~7月27日まで。

場所:スウェーデンのストックホルム

実施競技:陸上競技、競泳、飛込、水球、セーリング、ボート、自転車、馬術、フェンシング、射撃、近代五種競技、綱引、サッカー、テニス、野球、レスリング、芸術

調べてみると、昔のオリンピックは「芸術」なんて競技があったりしておもしろそうですよね。一体どんな風に競っていたのでしょうか。ストックホルムオリンピック、とても興味深いです。

ストックホルムオリンピックは期間が長かった!

五輪のポスターにも左上に「日本国旗」が描かれています。みつけられますか、大きくはためいているような曲線で描かれた日の丸。大変美しい、素敵なポスターですよね!

それにしても開催期間が約3カ月、とても長いですよね~ちなみに2020年東京オリンピック開催期間は、2020年7月24日~2020年8月9日です。近年の五輪と比べるとストックホルム五輪は何倍もの日数を要して長期間開催していたことが分かります。大規模なスポーツの祭典にストックホルムも街からパワーが溢れ、当時は大変活気があったようです。きっとにぎやかだったでしょう。

五輪が、4年に1度の世界規模のお祭りだというのは、今も昔も変わらない部分。五輪マジックとも言える現象…大会が近づくにつれ何故かワクワク・ドキドキしますよね。現在の東京も期待にみんな胸が躍り、街全体が活気づいてきたような気がします…東京オリンピックも盛り上がる予感がビシビシしてきますよね。待ち遠しい、2020年東京五輪はもうすぐです!

入場行進時のプラカード表記が「NIPPON」だった!

https://www.city.tamana.lg.jp

日本オリンピック史における大事な初参加のストックホルム五輪。開会式は1912年(明治45年)7月6日午前10時30分に開始。快晴で最高の天気だったそうですよ。日本の入場行進時のプラカード表記がオリンピック史上、唯一「NIPPON」でした。

以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記だそうなので、貴重なプラカードでの入場…そのプラカードを持っていたのは金栗四三選手なんですよ。記憶にも記録にも残る大会だったのです。「NIPPON」表記にすることは大会直前に急遽決定したため…「ITALY」と「LUXEMBOURG」の間、本来の「JAPAN」表記のアルファベット順通りの順番の入場でした。

「いだてん」でも日本のプラカード表記について、アツい議論がなされたシーン、詳しく描かれていましたね。「大和魂」感じる描写で、とても好きなシーンです。開会式ひとつとっても、初めてのことだらけに試行錯誤するエピソードが面白いです。

東京五輪のプラカードはどのようなデザインとなるのでしょう。歴史を知ると興味が湧いてきますよね。

さて、男子マラソン金栗選手のストックホルムでの戦い、とうとうはじまります。

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ストックホルム男子マラソン競技、日本人初のオリンピック選手・金栗四三が出場!

日本がアジアの国で初めてオリンピックに参加したストックホルム五輪。参加国・地域数は28。他に、エジプト、セルビア、アイスランドの3つの国もオリンピック初参加でした。

オリンピックに参加するということは、日本スポーツにとって歴史的に大きな大きな一歩。「いだてん」でも初めての五輪参加に右往左往、戸惑った様子が詳細に描かれていました。男子マラソン競技当日にも実に多くの出来事が起きました…遠く北欧の地での金栗四三選手のマラソン競技はどのようなものだったのでしょうか。

運命の日は、1912年(明治45年)7月14日。金栗四三選手、予想だにしない結果。

金栗四三が出場した男子マラソンは、1912年(明治45年)7月14日に行われました。

スタートは午後1時45分。開始時刻にはもうすでに気温は30度以上、舗装路から熱気が跳ね返ってくるランナーには過酷な真夏の炎天下での42.195キロでした。

男子マラソンに参加した選手は、68人。その中で途中棄権した選手が33人も出るほど過酷なレースでした…

マラソンコースは、ストックホルムから郊外に出て、ソレンツナという街の教会で折り返すという道のり。沿道には10万人以上の市民が応援に駆けつけ、最も人気の競技、それまた走路も異様な熱気を帯びていました。

3マイル…4.8キロ地点での1位はフィンランドの選手、2位はスウェーデンの選手、3位はアメリカの選手。我らが韋駄天、金栗選手は最下位近くで出遅れてスタートしたため、3位以内には入っていなかったのです。そこからは少しずつ追い抜き、折り返し地点では真ん中ぐらいに順位を上げていました。

しかし、折り返しを過ぎたところから、金栗選手を試練が襲います。体が思うように走れなくなってしまうのです。それもそのはず、心身の疲労が溜まっていました。白夜による睡眠不足、初の海外で走るということのプレッシャー。加えて、当日、迎えの車が宿舎に来ず、走って競技場に向かうというアクシデントも重なるなど…

もはや金栗選手の体力は限界値ギリギリ、折り返しの教会までいくのも大変なほど疲弊していたのです。折り返しを過ぎ、暑い空気に息を吸い込むのもつらい状況、それでも必死に走り続けたそうです。この日、日光のあたる場所は40度以上に達したと言われています。数年に一度の記録的な熱波、不運にもこの男子マラソンの日が当たってしまったのです。

金栗選手はこの日、スタジアムに姿を現さず、ゴールテープをきることはありませんでした

ストックホルム男子マラソンレースの結果、優勝者は…

見事、過酷なレースを走りぬいた、優勝者はケネス・マッカーサーという南アフリカの選手でした。完走したのは35名の選手でした。

ゴールした13位までが、オリンピック新記録という素晴らしいレース結果でした!

1位 2時間36分55秒 南アフリカ Kene McArthur(ケネス・マッカーサー)

2位 2時間37分52秒 南アフリカ    Christian Gitsham(クリスチャン・ギッシャム)

3位 2時間38分42秒 アメリカ         Gaston Strobino(ガストン・ストロビノ)

金栗四三選手が「羽田の選考会」で出した世界記録は、2時間32分45秒。やはり韋駄天・金栗は、当時世界レベルの選手だったことが、記録の面でわかります。万全の状況で競技に臨めたなら…と考えてしまいますが、このストックホルムマラソンの結果には勝負の世界の奥深さを感じます。

ドラマ「いだてん」の中で「ストックホルムオリンピックの記録映画」に映った完走直後の優勝者ケネス・マッカーサーは、フルマラソンを走り切った人とは思えないほど凛々しく輝いていました。史上最悪の状況の中でのレース優勝者となったケネス・マッカーサー、精神的にも肉体的にも優れたかっこいい偉大なマラソン選手ですね。

金栗四三…「Missing Japanese=消えた日本人」として有名に。ストックホルムマラソン競技途中に行方不明になる。

17マイル地点の分岐点、金栗選手はまっすぐのマラソンコースではなく、なんと右に折れて進んでしまい誤ったコースを走っていきました…

意識朦朧、フラフラの状態で走り続けた金栗選手、レース途中18マイル付近(26.7キロ地点)で、とうとう熱中症(日射病)にかかり倒れます。そのまま一時行方不明となり、とうとうスタジアムのゴールまではたどり着けませんでした。

金栗四三は、スウェーデンで「Missing Japanese=消えた日本人」として有名になります。金栗四三は、北欧の素敵な庭へと導かれていました…

間違った道を走り進んだ金栗は、ペトレ家の庭にたどり着きます。金栗は意識がハッキリしていない、低血糖のガス欠状態でした。このペトレ家の庭で、ラズベリー味のレモネードと、お菓子を分けてもらい…金栗四三は脱水状態や心身疲労から、一息つくことができたのです。ここで北欧の優しい一家に飲み物とお菓子を振舞われていなければ…金栗四三はどこか人知れず道で倒れてしまっていたことでしょう。不思議な縁が、四三を導いたような気がしてきます。

五輪が終わった後、日本へ帰国する前に、金栗は再びペトレ家を訪れています。日本紙幣入りの美しい小箱をお礼に渡したといいます。日本人らしい「礼儀」に感動しますよね。受けた恩義に報いる…実に真面目で実直な金栗四三らしい行動。日本に帰国してからも、折に触れ、ペトレ家へ絵葉書や雑誌などを送ったそうですよ。

55年後に国の招待を受けて、スウェーデンで最も有名な日本人・金栗四三は「55年目のゴール」通算54年と8月6日5時間32分20秒3の記録でゴールします!粋な計らいに胸がアツくなりますよね~

偉大な功績を数々残した金栗四三は、スウェーデンの地で多くの人に助けられていたということを初めて知りました。日本人として、金栗に手を差し伸べ救ってくれたペトレ家の家族のみなさんに感謝したい気持ちです。このできごとが伝説となり、現地では「金栗四三」の存在はとても有名だそうです。遠く北欧で日本人が愛されていると聞くと「世界は繋がっているのだなぁ」と、心があったかくなります。伝説も世界レベル、金栗四三の凄さを改めて感じるエピソードですよね。

ポルトガル代表の若きマラソン選手死亡という悲劇。ラザロ選手、ストックホルムマラソンにて命を落とす…

ストックホルム男子マラソンを語る上で忘れてはいけない、大切なランナーがいます。初めてのポルトガルマラソン代表として出場した、フランシスコ・ラザロ選手になります。彼は開会式で旗手を務めるくらい、母国ポルトガルの人々から期待されていたとても有望な選手でした。

100年以上前のマラソン黎明期に起こった悲劇…ストックホルム五輪マラソンにて重篤な脱水症状をおこし、ラザロ選手は惜しくも命を落としました。21歳だったラザロ…若いこれからのランナー死亡の悲劇、五輪初の事故死でした。

ラザロは全身にオイル状のワックスを塗っていました…古代ギリシャのオリンピック選手と同じ方法、ワックスで太陽光線を防ごうという目的だったのです。

競技中のラザロ選手の写真では、帽子も着用していません。悪条件が重なり、ラザロ選手はレース中重篤な脱水症状に陥りました…残り8キロのところで倒れました。翌日、逝去。亡くなったときも体温42.1度の高温でした。

勝ちたかった…そのために努力したことが裏目に出てしまいました。ラザロ選手、奥さんが妊娠中だったそうです。それを思うとまた、悲しいです。

ラザロ選手のことを「彼は死んだけど勝者だ。みんなのなかで生きている」と話すおじさんの言葉がグッと胸に刺さりました。「いだてん」でラザロ選手を知ることができてよかったです。忘れてはいけない五輪史ですよね。

【まとめ】ストックホルムオリンピックマラソンの金栗の結果や優勝者は?ラザロ選手が死亡したって本当?

ストックホルムオリンピックマラソン、42.195キロの道のりだけが「マラソン」ではないということを教えてもらったような気がします。

ストックホルムオリンピックマラソンは、過酷な状況下で優勝したケネス・マッカーサーはまぎれもなく英雄でした!記録映画で見たケネス選手は、活き活きカッコ良かったです。競技終了後の達成感のある表情が見られるのも五輪の素敵なところですよね。

ラザロ選手の悲劇と金栗選手のストックホルムマラソンを知って…競技の前後にも数々の出来事があって、結果だけがすべてではないということも学びました。多くのランナーが、この歴史を胸に「走っている」ということを知ったいま、マラソンの見方が変わりました!心揺さぶる人間ドラマ、忘れたくないですよね。

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