NHK大河ドラマ「いだてん」で生田斗真さんが演じる三島弥彦、金栗四三と同じく日本人初のオリンピック選手です!体育会系ゴリゴリ男子として話題となっています。

実家は名門三島家、とにかくスポーツ万能で有名人だったという明治時代に実在する人物なんですよ。どんな人であったのか気になりますよね。

今回は、三島弥彦の千駄ヶ谷の豪邸や子孫と家系図、短距離100メートルの記録や身長について紹介していきます。

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エリート家系に高身長、頭もイイしスポーツ万能、すべて揃っていた三島弥彦

三島弥彦が生まれた家、三島家家系図

歴史に疎い私でも、知っている名前がたくさん出てくる三島家の家系図由緒正しいお家柄だということがよくわかりますよね!

本当に目を見張る三島家の子孫・親戚、エリート家系図です。

三島弥彦、千駄ヶ谷の豪邸で産まれる

1886年(明治19年)2月23日東京のド真ん中(現在の東京都千代田区)、東京府東京市麹町区千駄ヶ谷の豪邸で誕生!華麗なる一族・三島家の末子として生まれました。

弥彦の父・通庸は元薩摩藩士、父の別名は「鬼県令」…県令として暴力的で強引な方法で揉め事を弾圧。しばしば命すら狙われたそうです。その際、なんと妻・三島和歌子が武器を持ち護衛をしたといいます。

父は2歳の時に他界。父は殺人剣として恐れられる剣術のかなりの腕前、弥彦はそんな親譲りの身体能力をもっていました。

加えて薩摩の人は、豚肉を好んで食べたため長身の傾向があり、日本男子の平均身長が155センチに時代に弥彦は170センチをゆうにこえる身長がありました。天性の恵まれた環境の中で弥彦は育ったのです。

弥彦は父の晩年の子。三島家の家族は、根っからのシティボーイの弥彦には甘かったのかもしれません。その頃、江戸期からの武芸とは異なる、純粋な娯楽としてのスポーツに若者たちは夢中になっていました。

弥彦もそのひとりで…野球はエース級、ボートも一軍、柔道二段、乗馬に相撲、スキーにスケートまで達者という「スーパーボーイ」でした。お坊ちゃまフル活用し「運動の覇王」と呼ばれスポーツにのめり込んでいきました。

三島弥彦と天狗倶楽部

 

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弥彦のスポーツ熱をより強固にしたのが「天狗倶楽部」の存在です。天狗倶楽部は、スポーツを愛好する青年たちが集まった集団でした。入会資格はなく、ゆるく広く若者が身体を動かすということを楽しむレクリエーション団体だったそうです。

スポーツ社交クラブ…まさしく刺激に飢えていた弥彦にはうってつけの天狗倶楽部。ここで切磋琢磨したことで、さらに三島弥彦のアスリート力があがっていきます。

 

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三島弥彦、飛び入りで日本人初のオリンピック代表選手入り?!ストックホルム五輪へ

ストックホルム選手選考の羽田予選会…三島弥彦、まさかの飛び入り参加で記録をだし優勝

羽田の予選会、三島弥彦は審判として参加していました。しかし、アスリート魂に火が付き、選考会に飛び入りで参加…100メートル走、400メートル走、800メートル走を走り、優勝してしまいます!

100メートルの優勝記録は12.0秒。何も考えず「優勝」してしまった三島弥彦。

学習院で学び、東京帝国大学(法科)へ進学するような頭脳明晰の26歳。娯楽としてのスポーツは許されるものの、名家出の三島がオリンピック出場を周囲に理解されるのは困難でした…

理解を得られないまま、ストックホルムへ向かいます。

 

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ストックホルムへ向かう直前の、金栗四三と三島弥彦の特集です!三島弥彦の筋肉隆々の腕、すごいですよね。

オリンピックはスポーツショー(見世物)、三島弥彦の抱える良家がゆえの苦悩

現代とちがい、日本人にとって「かけっこ」の遊びという概念だったオリンピック。立派な家柄に生まれた三島弥彦は「帝大生が海外に行って「かけっこ(遊び)」をしていいものか…」と苦悩しました。日本にとって五輪の知名度が低く、理解を示す人が少なかったという現実がありました。

しかし、嘉納治五郎や仲間など周囲の人に説得され、三島は卒業を延期、ストックホルムへ行くことを決めるのです。自ら強く望み周囲に助けられて行く金栗四三とは、正反対ですね。

家柄も「走る」ということに対する考え方も、真逆なふたりです。舞台裏を知ると「どんな気持ちでオリンピックに臨んだか…」が解って面白いですね。

三島弥彦のストックホルムオリンピック

https://www.gllc.or.jp/profile/history/ohmori.html

1912年(明治年)第5回ストックホルムオリンピック開会式、三島弥彦27歳。国旗を掲げて旗手をしているのが三島弥彦です。

三島弥彦は、100メートルで一位の選手に1秒差をつけられた記録、200メートルも予選敗退…なんと400メートルは決勝まで残ったものの、右足を痛めていたため棄権せざるを得ませんでした。

三島「金栗君、日本人には短距離は無理なようだ…」

三島弥彦は、金栗四三にそういったそうです。三島弥彦が現代の日本短距離界を見ていたら、きっと興奮して走りたい!といいそうですね!

※400メートルでは優勝候補の選手が、他の選手に記録を譲ろうとしたために準決勝で三島弥彦は予選通過します。

ストックホルムから帰国した弥彦は、4年後のベルリンオリンピックで再挑戦を狙っていましたが…第一次世界大戦のため中止になってしまい、夢は断たれてしまいます。

三島弥彦の気になるその後の人生、妻?子孫は?

1913年(大正2年)に三島弥彦は東京帝国大学を卒業。

スポーツ関連の仕事には就かず、弥彦はスッパリ引退後、銀行員になりました。横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)ニューヨーク支店で支配人を務め数々の要職につきました。

有能なビジネスマン、金融マンとして生涯を過ごしました。

三島弥彦には、鍋島文子という妻がおり、結婚していました。ふたりの子孫の記録は残っておりません。もしかしたら、今後の「いだてん」で詳細が描かれたりするのではないか…と期待してしまいます。

1954年(昭和29年)、67歳で亡くなりました。

三島弥彦、その後の人生もカッコ良すぎる「痛快男子!」ですよね。

【まとめ】三島弥彦の記録や身長は?千駄ヶ谷の豪邸や子孫と家系図について調査!

三島弥彦という人を紐解いていくと、生き様からイケメンでした…知れば知るほど生田斗真さんにピッタリの配役せすよね。五輪では世界相手に果敢に走り、叶わなかったという経験がその後のビジネスマンとしての彼を支えたに違いありません。

頭脳明晰、スポーツ万能の人は、こんな明治の時代から存在したことに驚きます。伝説の人物を深く知ることができました…素敵な人物なので、これからも「いだてん」に登場することを願わずにはいられません。

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